西山グループについて
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はじまりのものがたり

大正6年12月1日、
西山合名会社の誕生以来100年という年月の物語は、
二人の亀の奇跡的な出会いから始まった。
一人目の亀。西山亀七、明治15年5月5日西山久太郎という名で安芸郡田野村(現在の田野町)に材木商亀七と鉄の間に長男として生まれる。幼少期から父の『実学』の教えを受け15銭の元手を手に行商をすることで、肌で物の売り買い流通の機微を学ぶ。明治25年10歳の時に不況のあおりで父亀七は商売をたたみ家族3人が夜逃げ同然で高知市に転出。江ノ口川にかかる山田橋の北詰めで食堂兼雑貨商を営む家族の元で学校に通いながら家業を手伝うこととなる。家業を手伝いながらも学業は決しておろそかにすることなく、高知市立実業補習学校(高知市立高知商業高校の前身)を卒業するまで常に首席を通した。
この食堂兼雑貨商といっても今のそれとは少し趣が異なる、当時の山田橋の北詰めは南北の電車通りが敷設される前、八幡通りといって嶺北の玄関口となる南北交通の要所であったことから母鉄の食堂は、嶺北、岡豊あたりの製紙原料や木材、薪炭などを馬車や荷車で運ぶ馬借や車力が一息つくところ。そして、雑貨商は、父亀七と、久太郎が朝早く家を出て納屋堀あたりで塩干魚などを仕入れ、これを肩に担いで近郊の農家に行商する。代金を集めて、それで農家から農作物を仕入れ、これを市内の問屋に売り利益を得るといった、骨身を削るような商いであった。
明治37年2月日露戦争が勃発。家族三人で始めた商いも順調に発展、久太郎22歳。もとより目が悪く兵役につくことのできないことを不甲斐なく思った久太郎を母鉄は「のう久太郎よ、戦争にいけるからだの人は戦場に行く。戦争のできないものは、我が仕事に励む、どちらもお国の為ぞよ」と励ました。このころから亀七は、もう一人の亀、横田亀太郎と近所の銭湯「大黒湯」の風呂仲間であったようで、「森下の横田さんも召集になるじゃろうのう」という母とのやりとりがあった。
明治38年日露戦争の勝利は、日本の国際的評価を高め、それ以降好景気が続くこととなり、久太郎の店も大いに繁盛し、それまで店を支えてきた食堂は廃業、雑貨商も他に譲って内外米、雑穀に主力を注ぐようになる。

明治44年10月10日父亀七が他界。久太郎は、その父の成功を見ることなく苦労を重ねたままの他界という無念を汲み、同年11月8日2代目西山亀七を襲名、久太郎は一人目の亀となる。
さてもう一人の亀は、横田亀太郎(元の姓は明神)明治17年2月4日高岡郡須崎町浜町に生まれる。長男で、祖父は魚屋を営み、父林太郎はすぐ隣の米屋「泉屋」で奉公、兼業で農耕もしていた。しかし、元来酒好きでお人好しの父林太郎は、ある日友人の保証人になり、そこからはよく聞く話で、抵当に入っていた田畑、家までを取り上げられて一家は路頭に迷うことになる。そんな様子だったから学校にもろくに行けず、河端にあった須崎尋常小学校に半年通ったのが彼の学歴の全てであった。

15歳の初夏のこと米屋を志し、大枚2銭を懐に高知に出てくる。戸波を通り高岡を歩き通し仁淀川にたどり着くが、いつもなら5厘の渡し賃が大水のため1銭になっていて、飲まず食わずで堀詰までたどり着く頃には手元に1銭しか持っていなかった。米屋で働こうとはいえなんらあてのある話ではなく、堀詰の橋のたもとで思案していると、空の俵を担いだ男が通りかかり、そのものに「米屋に奉公したいが、どこか雇ってくれるところはないものか」と尋ねることから彼のキャリアはスタートすることとなる。

それから3年、当時の奉公先山田町の米卸森下商店では、その熱心な働きぶりから信頼も厚く、「大橋通りの下村へ集金に行って、戻りに掛川町の浜田(ひきわり屋)で麦を4斗もろうて、本町の並木へ2斗届け、残りの2斗は店へ取ってき」と言いつけられる。その時の集金の金額は2百円。今の貨幣価値に換算するとざっと4百万円もの大金で、集金したお金を持ったまま次の用事をするには心配で、集金した金を一時預かってくれないかと集金先に頼み預けてから次の用事を済ませた。その後、その店に返り、「先ほど預けた2百円を…」と切り出すと、「なんのことぜよ、そんなもん預かってないが」とのこと。亀太郎はその時「しまった」と思ったがあとの祭り。とりあえず店に戻って事情を説明するが、集金してくるように言われるばかり。それならばと集金先に朝に夕に何度も行き、戻してくれと申し入れをするが「預かってない」の一点張りで埒があかない。
結局、お金は戻って来ず、それ以降奉公先で6年のタダ働きをすることで決着することとなった。しかし、決まったことは受け入れるにしてもタダでは済まさないのが亀太郎。奉公先の主人に、「承知しました。この度の始末は、24の年になるまでタダ働きで返させていただきます。ただ、一つお願いがあります。庭先で鳩を飼わせて欲しいのですが、いかがでしょうか?」と。主人は、「鳩を飼うばぁしよいこと」と承諾するが、亀太郎には勝算があった。
当時の葬儀には、鳩を飛ばして故人の霊を弔う習慣があり、立派な葬儀ほど鳩の数が多いことを目にしていた。最初は2羽のツガイの鳩を買い飼い始めるが、その鳩は3月ほどで子を孵し、2羽が4羽に4羽が8羽にとみるみる増えていく。ある日、鳩の足に目印の紐をつけ飛ばしてみると、案の定夜になると巣に帰って来ている。準備万端整い、葬儀屋が鳩を買いにくるが、ツガイで二十円で売った鳩は夜になると巣に帰ってくるのである。鳩で得た収入は給料の何倍にもなり、その金で弟や妹を学校にやった。自分は、学校に行くかわりに夜分遅くまで寝る間を惜しんでそろばんの稽古をし、瞬く間に約束の6年の奉公を終えたが、主人が「跡を継ぐものがまだおらんきに、もうちっとつとめてくれんか?」というので、これに応じ2年のお礼奉公をした。
さて、二人の亀は互いをどう見ていたのか、どうして西山合名会社が生まれたかを紐解いていきたい。 亀太郎は、少し年上ではあるが自らの城である西山商店を起こし今まさに勢いを持ちつつあった亀七のことを西山の兄さんと呼び、自らの手本としていた。また、亀七は、似た年齢でありながら、丁稚奉公から身一つで同業の大店森下商店を取り仕切るまでになった亀太郎のことを、森下の横田さんと呼び一目置いていた。

明治45年3月相生町の亀七の西山商店の辻向かいに横田商店が開業。亀太郎が亀七に相談を重ね、待ちに待った独立であった。これに刺激を受けた亀七も発奮し店の東約半丁の江ノ口川沿いに倉庫(現在の相生町)を建てさらに隣に工場を設け当時最新式のコメの検査用自動丸ざし機や製パン機、卓上型の精米機などを整備した。時代は日露戦争から第一次世界大戦までの日本が国際社会の中で存在を確立し実体を伴う経済を発展させた時期である。その時代を背景に亀七はこれまでの主な商圏であった嶺北地域はもとより、東は室戸、西は宿毛から生芋、麦の買い付け、米穀類の販売と事業を拡張していく。また、この時期から歩兵第四十四連隊や高知県立師範学校、その他官庁の納入業者となり官米供給業者として信頼と責任を負っていくこととなる。
西山合名会社の誕生の3年前、大正3年、二人の亀は、百足屋の松田卯三郎氏に名付け親となってもらい万歳商店を開業する。松田氏は亀太郎を見込み森下商店から独立した際の開業資金千円を用立ててくれた人で、後の亀太郎夫人喜志尾の叔父である。ただ、この二人性格の違いは衆人の知るところで、親しい二、三の人に相談してみたところ、「うもういくはずがないきやめちょきや」と言われる。二人の信仰を支えた高知キリスト教会の多田牧師さんまでもが、「うーん」と言って勧めるそぶりがない。
そもそも、亀七は理想派、亀太郎は現実派。また、亀七は慎重に物事を考え石橋を叩いて渡る性格であったのに対し、亀太郎は即決型。注目すべき株を前に亀七が十分な検討を重ねて、亀太郎にこれを買おうと思うがどうだろうと相談すると、亀太郎はすでに買っているといった調子。万事正反対の性格である。
しかし、後日、亀太郎本人の言うところによると、「周りのみんなから反対されても、よくよく考えたら、我を捨て、個人の欲を捨てりゃあうまくいかんはずはなかろうと、意を決し始めた」とのこと。キリスト教への信仰を背景に互いの違いを認め合い、敬意を持って強みを生かすことが今日の西山グループの発展の理。この種の生まれた瞬間である。
明治43年の韓国併合以降、大陸を舞台とする輸出入が増加する中、第一次世界大戦の渦中においては戦乱に巻き込まれない東洋に求められる役割に応呼する形で日本の米穀卸も商いが国際化。現在の商社のような役割を果たす卸が見られるようになっていく。そのような中、西山商店、横田商店、そして万歳商店も大方の予測を裏切り順風満帆な滑り出しを見せる。

とはいえ、まだまだ高知県を代表する山崎商店や須崎の三浦物産などには及びもつかない高知県内に限った商いをしていた。亀七の宿願は、名実ともに内外米穀輸入問屋の看板を掲げ、山崎商店や三浦物産を超える高知を代表する米屋になることである。
その望みを果たすべく、大正6年の春、米雑穀輸入卸問屋西山商店支店を農人町に開店する。しかし、初代を託した支配人加茂虎一が開店1年を待たずに急逝。その西山支店を立て直すために、二人の亀が共同出資し代表社員となった西山合名会社が誕生したのはその年の12月1日のことであった。

こうして生まれた西山合名会社は、時代の追い風を受け順調な発展を遂げていった。その特筆すべきことは、当時の商いというものは盆暮れが休みで日曜日に休むといった習慣のないところ、日曜日を休養日とし全社員がキリスト教の高知教会で、日曜礼拝に参加していたことであろう。
今の時代には、信仰の自由の観点からこうした決まりを強要することはできないものの、研修を通じて人間力を高めるという趣旨からすると、相当時代を先んじていたものと思われる。社員は二人のことを西山の兄さん横田の兄さんと、さん付けで呼び合い、上下関係による無用な礼儀を求めず、正しいことを信じて全社員が邁進する集団が発展しないはずもない。

農人町で開業した西山合名会社が、水運の地の利と、人の流れを考え東種崎町に移転したのは創業から2年後の大正8年12月1日。取扱品目をこれまでの米雑穀から肥料、飼料、砂糖、麺類、食油、石油と拡げた新社屋には、敷地内まで続く2本の鉄路が敷設され、はしけから荷揚げされた荷物をトロッコ貨車に乗せ、そのまま倉庫や工場に運び込む。また、敷地内には社員食堂や寄宿舎まで備え、アレヨアレヨという間に社員100人を超す高知を代表する総合商社となっていった。