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明治44年10月10日父亀七が他界。久太郎は、その父の成功を見ることなく苦労を重ねたままの他界という無念を汲み、同年11月8日2代目西山亀七を襲名、久太郎は一人目の亀となる。*
15歳の初夏のこと米屋を志し、大枚2銭を懐に高知に出てくる。戸波を通り高岡を歩き通し仁淀川にたどり着くが、いつもなら5厘の渡し賃が大水のため1銭になっていて、飲まず食わずで堀詰までたどり着く頃には手元に1銭しか持っていなかった。米屋で働こうとはいえなんらあてのある話ではなく、堀詰の橋のたもとで思案していると、空の俵を担いだ男が通りかかり、そのものに「米屋に奉公したいが、どこか雇ってくれるところはないものか」と尋ねることから彼のキャリアはスタートすることとなる。*
それから3年、当時の奉公先山田町の米卸森下商店では、その熱心な働きぶりから信頼も厚く、「大橋通りの下村へ集金に行って、戻りに掛川町の浜田(ひきわり屋)で麦を4斗もろうて、本町の並木へ2斗届け、残りの2斗は店へ取ってき」と言いつけられる。その時の集金の金額は2百円。今の貨幣価値に換算するとざっと4百万円もの大金で、集金したお金を持ったまま次の用事をするには心配で、集金した金を一時預かってくれないかと集金先に頼み預けてから次の用事を済ませた。その後、その店に返り、「先ほど預けた2百円を…」と切り出すと、「なんのことぜよ、そんなもん預かってないが」とのこと。亀太郎はその時「しまった」と思ったがあとの祭り。とりあえず店に戻って事情を説明するが、集金してくるように言われるばかり。それならばと集金先に朝に夕に何度も行き、戻してくれと申し入れをするが「預かってない」の一点張りで埒があかない。*
明治45年3月相生町の亀七の西山商店の辻向かいに横田商店が開業。亀太郎が亀七に相談を重ね、待ちに待った独立であった。これに刺激を受けた亀七も発奮し店の東約半丁の江ノ口川沿いに倉庫(現在の相生町)を建てさらに隣に工場を設け当時最新式のコメの検査用自動丸ざし機や製パン機、卓上型の精米機などを整備した。時代は日露戦争から第一次世界大戦までの日本が国際社会の中で存在を確立し実体を伴う経済を発展させた時期である。その時代を背景に亀七はこれまでの主な商圏であった嶺北地域はもとより、東は室戸、西は宿毛から生芋、麦の買い付け、米穀類の販売と事業を拡張していく。また、この時期から歩兵第四十四連隊や高知県立師範学校、その他官庁の納入業者となり官米供給業者として信頼と責任を負っていくこととなる。*
とはいえ、まだまだ高知県を代表する山崎商店や須崎の三浦物産などには及びもつかない高知県内に限った商いをしていた。亀七の宿願は、名実ともに内外米穀輸入問屋の看板を掲げ、山崎商店や三浦物産を超える高知を代表する米屋になることである。*
こうして生まれた西山合名会社は、時代の追い風を受け順調な発展を遂げていった。その特筆すべきことは、当時の商いというものは盆暮れが休みで日曜日に休むといった習慣のないところ、日曜日を休養日とし全社員がキリスト教の高知教会で、日曜礼拝に参加していたことであろう。*
農人町で開業した西山合名会社が、水運の地の利と、人の流れを考え東種崎町に移転したのは創業から2年後の大正8年12月1日。取扱品目をこれまでの米雑穀から肥料、飼料、砂糖、麺類、食油、石油と拡げた新社屋には、敷地内まで続く2本の鉄路が敷設され、はしけから荷揚げされた荷物をトロッコ貨車に乗せ、そのまま倉庫や工場に運び込む。また、敷地内には社員食堂や寄宿舎まで備え、アレヨアレヨという間に社員100人を超す高知を代表する総合商社となっていった。